ヒトは社会性(群れる)動物である、というところから「よりどころ問題」を考える。

群れ動物だから、集団の中でのポジションがないと、辛い。自分の役割。自分が必要とされること。
群れの大きさは、本来は類人猿をみればわかるように、つがい、もしくは数頭〜数十頭というところだったろう。世界各地の狩猟採集生活を送る先住民は、そのくらいのサイズの集団で動く。
やがて定住生活をするようになっても、群れのサイズは変わらない。明治時代になるまで、日本中の集落は、数軒〜数十軒の自然村だった。そのサイズは、ある水系の生態地域の範囲でもあり、基本的にはその範囲の自然の生産力でその集団が生きることができる。そういう、ミニマルな生存の単位に、おそらく世界中の農村地域は分かれていたはずだ。日本では、昔からの小学校区(あるいは公民館区)が、それに近い。それが生き物としてのヒトの自然な集団単位だったし、そのサイズで自治も行われていた、民主主義的ガバナンスの単位でもあったのだ。
しかし、社会が複雑化するにつれ、人間集団の大きな単位ができてくる。それは生物としてのニーズではなく、大脳の抽象化する能力からくる、権力や経済のロジックの要請によるものだ。都市とか、国家とか。生存と自治の単位だった自然村も、行政コストの都合で統廃合される。その単位はヒトの生き物としてのスケールとはかけ離れているから、どこかに歪みが出てくる。軍隊を作ったり、金融で生きる人が出てきたり、宗教が生まれたり。その先に、貨幣の物神化やナショナリズムがある。
生きるよりどころは、本来は、自分たちの命を繋いでくれる自然の恵みへの絶対的な感謝と、生命再生への祈りから生まれる。祖先とのつながり、そして今を生きる仲間や他の生命とのつながり。
しかし大脳の抽象化能力が国家や貨幣や宗教をつくり、大きな集団のまとまりへと個人を誘うと、偽の「よりどころ」が入り込んでくる。国のために死ぬとか、金のために人を殺すとか、そういうことを言い出す状況が生まれ、なんだかおかしなことになってくる。偽のよりどころを掲げて、人を操作することも行われる。
そういうことに騙されて生命をおろそかにしないためには、生き物としてのベースを自分自身の手に取り戻していくことが大切だ。僕らが重要だと思い込んでいるほとんどのものは、単なる集団的妄想であり、偽のよりどころなのだ。

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