上野動物園に行ってきた。サル山を見たくて。

 サル山はやはり飽きなかった。ちょうどお休みの日で小さい子供連れの親子がいっぱいいたんだけど、
「わー、おサルさん」とか言ってキャイキャイやってる彼らと、柵の向こう側にいるおサルたちとはほ
とんど同類。おまえらこそおサルだっつーの(笑)。まあ服を着て直立して(もっとも大人と違って子供
はすぐに座り込んだり寝転んでじたばたしたりする(笑))言葉をしゃべってるというくらいの違いで。

 一番の収穫は、ニホンザルにおいて「踊り」の原初形態を目撃できたこと。    

山頂で絶頂に達す る(笑)おサル


 突然何の理由もなく、ある一匹がやたら興奮してコンクリートで作った岩山を一気に頂上まで駆け上が り、1分くらいの間身体を上下にリズミカルにゆすったのである(写真)。岩山は数メートルの高さがあがり、頂上は見物人の頭ごしに遠 くまで見渡せてかなり眺めがいいはず。そこにわざわざのぼってウッホウッホ(声はたしか出していなかった気がするが)やるというの は、これはきっと相当きもちいいものなんだろう。これは犬はいざしらず猫なんかには見られない行動で、「あー、なんだ俺たちと同じ じゃん(笑)」と大層愉快な気分になった。
 この「踊り」は外の音楽に合わせたものではなくまったく内発的なものだし、単独行動でもある。だけど 僕はあれを「踊り」と呼びたいのだ。自分がサルになった気持ちになれば、あれはヤツが気持ちイイからやってる、生の悦びの表れなのだ ということはよくわかる。この「踊り」を3回も見かけた。

 タンザニア・ゴンベ国立公園でチンパンジーの研究を続けるジェーン・グドール博士は、大雨の時にチ ンパンジーが集団で叫び踊る「レインダンス」について書いている。密林で身体を激しくリズミカルに動かし、木の根などを叩いて「踊 る」のを、10年間で2回だけ見たという(「森の隣人」ジェーン・グドール著)。まるで相米慎二の名画「台風クラブ」(工藤夕貴が出 た映画で、中学生たちが台風で学校に閉じ込められ て意味もなく高揚していきあげくの果てには素っ裸で走り回ったりする。)そのままだ。あの上野のサルのダンシング・エクスタ シーが集団で共有されることもあるわけなのだ。すばらしい。

 ヒトが他のサルにも増してよく踊るサルである理由はたぶん、「直立するサル」だからだと僕はにらん でいる。試してみるとわかるけれど、四つんばいだとうまく踊れない。また、樹上性のサルにとっては、木にぶらさがってぶらぶらするこ とも多分「踊る」のと同じくらい気持ちイイことなのだ。
 考えてみれば、踊るという行為そのものは他の「走る」とか「食う」とか「勉強する」とかいう行為と 違って徹底的に無目的なのだ。要は気持ちイイからヒトは古今東西、太古から踊り続けてきたのだ。で、いろんな事情から直立してしまっ たヒトが自分の身体性を実感するのにいちばん自然なのは、前かがみになって体をゆっさゆっさすることだった(これもやってみればわか る)。風呂上がりとかにいろんなやり方で体をゆすってみると面白いことに、やはり100~120BPMくらいが一番気持ちよくて長続 きすることがわかる(僕の場合だけど)。  

 僕らの祖先や兄弟が、「生きているという実感、悦び」をいかに感じてきたかということにもっと関心 が持たれていい。なにしろ、現代人は「生の実感」が失われてきて困っているのだ。僕だけかもしれないが。
 そしてこうした研究は当然、「まつり」「音楽」「舞踊」「芸能」「シャーマニズム」といった、人間の 文化のうちで言語によって担われない部分の成り立ちにつながっていく。サル学でも進化論でも考古学でも人類学でも民族学でも、今生き ている僕ら自身につながる問題として考えるとすごく面白いはずなのだ。

<本・リンク>
 黒田末寿著「類人猿の非日常的行動」(現代思想1984.7月号「特集 シャーマニズム」所収)
 ジェーン・グドール著「森の隣人」朝日新聞社